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神保町で切なく小さくなる(長文)

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今週火曜日毎年の検診の帰りに神保町に行きました。出版社での打ち合わせの時間までぶらぶらすることにしました。
軽く本屋覗いて、外国人観光客に有名なさくらホテルのカフェでお茶して(写真)、また本屋覗いて、またお茶、また本屋。

で…

なんとなく、凹んでしまいました。

本屋さんの書棚を眺めて時々取り出して中をパラパラしていると、いろんな本があって、いろんな書き手がいて、いろんな考えいろんな世界があると気付かされます。


世界は広い。

広すぎるわ。

広すぎて広すぎて、自分が小さくてしょうがない気がしてくる。ものすごくものすごく小さい。
いつも一生懸命話脳みそ絞って「自分らしい」「目新しい」漫画描いているつもりだけれど、いろんな考えや世界に触れると、自分のがとても浅くてなんでもないものに思えてくる。
埋没していく気がする。

でもそれはここに並んでる本もそうで、特集でも組まれたりして平積みにされている以外は、みんな等しく本棚にあいうえお順とかで、背表紙だけを向けて並べられている。本の多少の大小はあるけれど、目立たなくて気づかれない、手に取ってもらえない本もいっぱいあるんだろう。私だって取り出したのはほんの数冊だし。
どの一冊一冊も、みんな脳みそ振り絞って鬼のように描いたり書いたりして出来上がっている。書く方にとって本を作る方にとってはどの一冊も特別。本を取り出して表紙や帯、中身を見れば「こんな考え方かあ」「こんな世界があるのかあ」とわかるのに、こうして並べられると、気づいてもらえないんだ。

神保町のすずらん通りには書道の本専門店とか骨董品の本専門店とかもある。あの日はとても暑くて天気が良くて、そんな日差しの下に大昔の本が積み上げられて「一冊200円」とかで売られていた。
…大昔だったらものすごくありがたい本だったかもしれないのに、この本書いた人も一生懸命書いたかもしれないのに、積み上げられてほんの200円になってしまってる。



なんか、切ないなあ…。

空間的にも時間的にも広い広い砂漠のような世界で、砂の一粒でしかない、存在…。


最近はインターネットのおかげで本当に情報過多で、いろんなことがネットでわかるのはありがたいんだけど、おかげで世界の広さがわかりすぎて、やっぱり自分が埋没していく気がしてしまう。
へんな例だけれども、
子供のころは家族っていう小さな単位が自分の世界だったわけで、たとえば「卵ご飯を作れる」のは自分だけだったとしたら、自分の大きさって「5分の1」だった。
小学校の自分のクラスでドラえもんをうまく描けるのが自分だけだったら「40分の1」だった。

でもインターネットで世界が見えたら「数万、数千万分の1」だった…みたいな。


だからなんだって話なんですが…。
そんなことを考え出したら打ち合わせを前にものすごく凹んでしまって、やばいどうしようっておたおたしたってだけのお話なんです。

でも自分のために「1分の1」の自分になれるために、やれることはいっぱいある。精一杯頑張るしかない。

昨年、「老いと死は遺伝子のたくらみ」(日高敏隆著武田ランダムハウスジャパン刊)という本を読みましたした。
人間は生きることも伴侶を選ぶことも育てることも年老いたら死ぬことも、「種を存続させる」という絶対的使命を与えられた遺伝子に操られて決定しているんですって。そういう遺伝子が体のすべての細胞に組み込まれていて細胞の一つ一つはそのためにせっせと働いてるんですと。まるで砂漠の中の砂粒のような何億分の一の細胞たちが。死に向かって頑張っているんですって。

私も「ヒト」という存在の、細胞の一つなのかもしれないなー。

だとしたら、頑張るしかないんですね。
できればもっとデンと構えて余裕もって頑張りすぎずに生きたいものですが。


しかしどうなんだろ、昔はそんなこと考えもしなかった。インターネットがなかったから。あるいは若い時は周りなんかいい意味で見ていなかったのからかも。自分のほかにライバルが何万人いても怖くなかったんだろうな。羨ましいなあその世間知らず。


長文失礼しました。
ゴールデンウィーク、西山のはiPhoneのデータ移行で緊張しまくって始まりました。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。
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